すべてがIT企業に パート2

森下 吉伸

理論だけだと食い違う


仏教には小乗仏教と大乗仏教がある。

私流にいうと、個人の利益か、大勢の利益かによって違いがあると思っている。

いま一般的な仏教は大乗仏教だといえる。

大乗仏教は釈迦の死後に、弟子達が作り上げたものである。

釈迦の骨に意味があると考えられ、仏舎利に人を集め、釈迦の言葉を解釈したものたちが教えを広めた。

「般若心経」で説かれている「空」は、釈迦が言ったのではなく「縁起」に基づき、すべての存在にはその本質となるべきものはないとナーガールジュナがまとめた概念なのだ。

しかし、釈迦の考えに近いのは小乗仏教だといわれる。

「十二支縁起」などがそうである。

この二つは同じ仏教ではあるが、食い違うところが多い。

この違いは、そもそも釈迦の考えと、いまの仏教は食い違いが多いということになる。

たとえば、釈迦は死後世界や霊の存在を否定していたが、いまの仏教では葬式や法事をやっている。

なぜ、こうなったのか。

時代とともに考えが変わっていくのはしょうがないが、肝心なところが食い違うのはよくない。

釈迦が悟ったものは、彼自身も当時の弟子達には「どうせ君たちにはわからないだろう」と思っていたと聞いた。

釈迦自身が理論だけで「縁起」を悟ったわけではない。

釈迦が悟ったことは、言葉だけでは完全な理解にはならない。

頭を極限的に使うとか、瞑想によって無意識を活用するかと、さまざまな自分なりの非理論的な方法で理解があってこそ悟ったのだと考えられるからである。

具体的な非理論な感覚


では、もっと具体的に非論理的な感覚を考えてみる。

人は「自分が見たいものしか見ない習性をもつ」と言われている。

古代ローマの将軍「シーザー」がいった言葉である。

これも医学的というか心理学的にというか、この習性を説明したものである。

この事実は、それぞれの人格をつくり、それぞれの自我になっている。

この習性も「縁起」に関係している。

自分達が見たいものを選ぶ事自体が「縁起」を変えるし、それによって独自な自我が生まれているからである。

たとえば、「自己紹介をして下さい」というと

・自分を生んだ母親、育ててくれた父親の話をする。

・学校や先生の思い出、影響を得た先輩や友人の話をする。

・本やテレビ、熱中したスポーツや趣味などの話をする。

「なぜ、この道を選んだのか?」ということを考えると、これらは、すべて独自な「縁起」によ って起きており、自分自身の考えで突き進んだように思うが、実は周りによって動かせられたことに気づく。

今の自分は、単に自分の考えや行動などで作り上げたものではない。

だからといって周りの影響から、自分が見たいものをみて、自分が形成されただけでこうなったともいえない。

理論的に得たものだけではなく、何度も経験することによって、直感的に養われたことや、体が勝手に覚えたこともあるだろう。

その時々で物理的に得たもの以外にも、体全体で得たものも多いだろう。

それは言語化が難しいのではないか。

つまり非理論的なことがあってこそ、いまのあなたという人間が存在しているのだ。

非理論な行動・地域性


今度は、非理論的な感覚を行動や地域特性で考えてみる。

そのひとつに「ハグ」がある。

私が子供のころ、欧米人がことある度に抱きついている姿をみて恥ずかしかった記憶がある。

いまの日本は、ハグをしても恥ずかしくない国になった。

このハグこそが、非理論的な感覚であり、体全体で感じるコミュニケーションである。

たしかに、結婚記念日に日頃の感謝を言葉にすることはいい事だし、なにかプレゼントをするのもうれしいことではある。

しかしハグにはさらに愛情を感じることができる。

説明のできない感覚である。

また、日本人には「オノマトペ」が使える。

日本人は触感というか感覚を大事にする国民である。

言語で伝えるにも、擬音語、擬態語と呼ばれる感覚でのコミュニケーションをやってきた。

通常、人間関係を深めるときに理論的に考えると「どう話を組み立てて、どういう順序で話すべきか?」といったことだけになる。

それに擬音語や擬態語をバランスよく入れることで「間」や「呼吸」、「ニュアンス」など感覚的に状況が伝えられるのだ。

さらに理解度を増すことができる。

たとえば、「ギリギリまで待つ」という言い方。

ギリギリとは、日本人の感覚では「ボーダーライン」であり、「限界まで待つ」ということになる。

あわせて「最大の可能性を考える」とか、「通過しない限り次にいかない」といった意味も含まれる。

そもそも「ギリギリ」というのは「歯を食いしばり、足の裏が地をこすれ合った音」「それを足の裏での感覚をしる。

肌で感じることで理解する」という意味があるので、ながながと説明しなくともかなり切羽詰まった状況がわかるのだ。

体感的な非理論


また、心理学のなかで「ゲシュタルト」という心理療法がある。

この言葉は、知覚・認識など全体的なまとまりの概念で、「部分でとらえるのでなく、体全体でとらえる」ということになる。

カウンセリングやコーチングでは「普段意識していない気づきを得る」という利点がある療法である。

たとえば、自分の気持ちを相手に伝えるとき「貧乏揺すり」や「左手の震え」が起きるとする。

「のど元が苦しくなる」とか「ずっしり重い物が肩にのる」かもしれない。

なぜ、そんなことが起きるのか?

単に自分の気持ちだけでなく、体全体で起きている症状も含めて自問自答してみる。

そのことで新たなる気づきが生まれるかもしれない。

また、こういう体の変化を重要視しているのが「禅寺」だろう。

雑念があると叩かれる座禅である。

私も禅寺で叩かれることがあるが、それは見た目で雑念が感じたからだ。

座禅をするときに何も考えず空っぽにするという人もいるが、なにか考えたら雑念ではない。

釈迦が行った瞑想は、座禅で頭を空っぽにするわけではなかったという。

理論を頭の中で突き詰めて考え抜いたようだ。

その過程で、でてきた下世話なことが雑念であって、考えを突き詰めることで理解度を増そうとしたのだという。

たとえば、ある人との関係を深めようと考えたとする。

「自分がどうあるべきか」に考えを突き詰めることは問題ないが、「こうすれば別の人の目がある」とか「それはお金がかかるから」と主流の筋から離れるとか、それによって思考や感情が動くとなると雑念になる。

それは座禅する見た目に現れ、体の反応になって他人に察知される。

そして、パチンと叩かれるのである。

計画に思いを入れる


では、最後にまとめてみる。

今回は理論と非理論のバランスの話をした。

「理屈だけでなく、感覚的な理解やアプローチも大切だ」といったことを、釈迦を取り上げて話したので難しかったかもしれない。

しかし、商売の成功も人間関係の成功も、すべてが「悟り」によって改善できるので、「悟り」に必要な非理論の感覚を、再考してもらいたい。

「悟り」というのは、王道を貫き、雑念をはらい、とことん突き詰めることで、言葉で定義できないものをつかむことでもある。

完全な「悟り」は無理でも近づけることが重要である。

愛もそうだが、言語化不能なことは、「自分の脳をつかって感じるしかない」のである。

これから目標や計画を立てられるときに、期待や数字だけで作ると、絵に描いた餅になる可能性があるとする。

もっと、血の通ったものにする為に、情熱、使命感、正義感、といったものがあれば更に達成度は上がるのではないか。

そう理解していただきたい。


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